自然な出会いで新しい世界が広がる キャンディーズインターナショナル

障害者支援

世界を極めた男 金メダリスト葭原 滋男インタビュー・前編

パラリンピックで獲得メダル総数4つを誇る葭原滋男(よしはら しげお)選手。高跳び、ブラインドサッカー、そして自転車で世界に挑戦し続けている葭原選手の波乱の人生をひもとく。

視覚障害の自転車競技とは?
視覚に障害を持つ選手は二人乗り用タンデム自転車を使う。前の座席に目が見える晴眼のパイロットと呼ばれる選手が乗り、後ろに視覚障害の選手が乗り競われる。

ブラインドサッカーとは?
5人制でおこなわれ音の出るボールを使う。視覚障害のプレーヤー4人はアイマスクを着用し、ゴールキーパーは晴眼のプレーヤーがおこなう。

聞き手:キャンディーズインターナショナル株式会社・代表 石井 宏幸

石井:幼少時の頃は見えていたとうかがいましたがどんな子供だったのでしょうか。
葭原:生まれたのは東京の杉並。育ったのは埼玉の鶴ヶ島です。とにかく外で遊んでばかりいた。太陽が上っている限り走り回っていました。サッカーをやったり野球をやったり。常に泥だらけでしたね(苦笑)
石井:ゲームとかはやらなかったのですか?
葭原:やらなかったなぁ。家に帰ってきたらテレビ観てるか寝てるか。
石井:そうすると学校の成績は体育が得意だったのですか?
葭原:そうだね、体育は好きだった。後は算数とか。
石井:そんな生活を送っていた中、10歳の頃見えなくなり始めたとうかがっています。
葭原:小学校入学時の色弱検査で数字が読めなくて、医者に行った方がいいと言われたんです。それで町医者に行ってその後紹介されて大学病院に行ったんです。10歳の時に網膜色素変性症と診断された。19歳で失明と言われたんです。
石井:その頃、網膜色素変性症は進行性と分かっていたのですか?
葭原:10歳ながらその病気が重大だなって思っていた。その後自分で調べたんです。そうしたら家庭の医学かな、家にあったのを読んでいたら書いてあったんです。失明?失明ってなんだろうってねって思った。(編集者注:10歳には失明という言葉がどのような意味を持っているか知らなかったという意)その後、19歳で急激に視力が低下しました。その頃は貿易会社で仕事を始めていて、過労でさらに視力が低下しました。今は光覚です。(編集者注:光を感じる程度の視力)
石井:目が急激に悪くなった時、どのようなお気持ちでしたか?
葭原:母親が心配して福祉事務所と話をして手帳を取得しました。福祉事務所と母親が話をして最初はマッサージの資格を取った方がいいんじゃないかと話があった。そういう風に福祉事務所から説得されたんです。自分もこういう病気があるし、しょうがねぇかなって。その時は今までやってきた人生とは全く違う世界になるなぁって。
ショックとは違う。あきらめみたいな。一晩考えて切り替えたんです。自分としては視覚障害者になっても今までやってきたことは変えたくない。自分の持っている視覚障害者像、可愛そうとか何にも出来ない、そういう先入観があったんだけれど、そういう人間にはなりたくないって。違った視覚障害者像を創ってやろうって思った。
石井:一晩ですか?!そういう風に気持ちを切り替えることが出来るのは葭原選手の原点じゃないかって思います。
葭原:ネガティブな気持ちってあんまり持っていないのかも。落ち込むこともよくあるけどね。(笑)いま自分に与えられた状況をしっかり見つめて、じゃあどうするのがいいのかな?と考える。そんなふうに考えて数年前に見えない人がまちを歩くってどういうことなのかをエッセイにまとめてみたんです。名前は伏せてあるけど、結構好評らしいです。
石井:どのような内容の話を書いたのですか?それ私も読みたいです。
葭原:講演会に来てくれればね。(笑)

石井:その頃視覚障害者のスポーツを始めたのですか?
葭原:国リハ(埼玉県にある国立障害者リハビリテーションセンター)に通っている時、同じ世代の仲間とRBB(レボリューショナリー・ブラインド・ブラザーズ Revolutionary of Blind Brothers)そういうチームを作って視覚障害者の革命をおこそうって。そこでスキーをやったりキャンプをやったりしていた。あと飲んだくれたりね。(苦笑)
石井:キャンプですか?!
葭原:背負子で飯盒とか薪しょって、島とかに行って海岸にテント張ったり。
石井:国リハで勉強をしていた3年間はどのような気持ちだったのですか?
葭原:やっぱり自分がやろうと思っていたことは間違ってないんだなって。暗くて、何も出来ない人という今まで自分が持っていた視覚障害者像は間違って、みんな普通の人じゃないかって。
石井:視覚障害者のスポーツに本格的に取り組んだのはいつからでしょうか。
葭原:国リハ時代の3年の時、障害者スポーツと出会った。それまでは見えている頃にやっていたスキーとかサーフィンとかをずっとやっていたんです。3年の時に障害者の国体(全国障害者スポーツ大会)があった。そういうのがあるって初めて聞いて、それがたまたま沖縄大会だったんです。沖縄に行きたい。じゃ何かやろうかって。それが障害者スポーツのスタート。(苦笑)
石井:沖縄というところにひかれたのですね。(笑)
葭原:そう、単純に。他の県だったらなかったかもしれない。(苦笑)
石井:そこで陸上をやられたんですね。
葭原:国リハの体育の先生のところに行って、沖縄行きたいんで何かやりたいんですけれどって相談しに行ったんです。じゃあ何出来るんだって言われて「何でも出来ます」とか答えて。(苦笑)とりあえず色んな種目を先生が見てくれて、高跳び良さそうだねって言われて高跳びをやったんです。
石井:先生の推薦だったんですね。
葭原:そういうこともあった。国体に出たのが87年で24歳の時。
石井:アスリートとして始めるにはどうですか、遅いことはないですか?
葭原:まあ、一般的に考えれば遅い。
石井:それでも順応出来てトップになれたのはなぜですか?苦労もあったかと思いますが。
葭原:まずやっぱり高跳びは体育でやったくらいしか自分のなかになかった。高跳びっていうのはどうやったら飛べるんだろうって思って調べたりした。練習の本とか買ってそれを読んでこうやってやるのかって。色々自分で調べて練習メニューを組んでやっていたんです。
石井:自分でやっていたんですか?その沖縄の大会ではいかがでした?
葭原:国体に出場して同記録で2位だった。その時、自己ベストが出れは余裕で優勝だった。
石井:その時2位だったのはどういう気持ちでしたでしょうか。
葭原:それはメチャクチャ悔しかった。だって、普段飛んでいる高さを飛んでいれば優勝だったんだから。でも2位になっちゃった。その悔しさが次ぎに繋がった。
石井:その次と言うと。
葭原:もしかしたらそこで自己ベストを出していれば88年のソウル(パラリンピック)だった。いつも一緒に練習している自分より飛べない人がソウルに行ったんだよね、結局。なんであいつが行けて俺が行けないんだと。じゃあ次の4年後は俺が行こうって、そこから4年間計画を立てたんです。
石井:それは特別なトレーナーについていたのですか?
葭原:3年間で国リハを卒業してその後は社会人になったんだよね。仕事が終わった後に障害者スポーツセンター(東京都北区)に行って練習をすることになった。そこの指導員の人に色々アドバイスを頂きながら進めていった。

石井:ソウル・パラリンピックに出られなかった後バルセロナ・パラリンピックに出場されましたがいかがでしたでしょうか。
葭原:世界はスゲェなって。圧倒された。
石井:どのような点がでしょうか。
葭原:まず身長が高い。顔一つデカイから。こいつと一緒の高さ飛ぶなんて無理だよなって。(苦笑)それだったら自分のベストを尽くして満足して帰ろうって思った。
石井:その結果が4位で惜しくもメダルに届かなかった訳ですが。
葭原:(しばしの沈黙)凄い悔しくてどうしたらいいのかなって。色々考えて、結局はメダルを欲しいよなって思った。その後の4年計画を立てた。今の自分にはこういう課題があるからリストアップしてそれを一つ一つクリアしていくにはどういう練習をしな
ければいけないのかと。それを組み立ててその練習をするには1週間どういう風にす
ればいいか考えたんです。そうしたら、全然時間が足りなくて、4年間はアッという間だった。
石井:その後にアトランタ・パラリンピックの高跳びで銅メダルを獲得することになりますね。
葭原:アトランタでようやく銅メダル。もう33歳。自分の競技人生はこれで終わりかなって。最後にメダルを取れて良かったなっていう満足感があった。
石井:その後自転車競技をなされたと伺っていますが。どういう経緯があっったのでしょうか。
葭原:友人がお世話になっていた自転車屋さんを紹介してくれて、そこは実業団でも有名なクラブチームだった。監督さんがパラリンピックで金メダルを取りたかったら俺が面倒見てあげるよって。そうしたら金メダルを欲しいなって思うようになった。もう陸上も引退。足腰には自信があったんでいっちょやってみようって。
石井:幸運の出会いだったんですね。
葭原:うん。それが98年。
石井:ちょっと待って下さい。そうするとシドニー・パラリンピックまで2年しかなかったことになりますが。それは想像を絶する厳しさだったと思いますが。
葭原:その2年間は想像を絶しました。(笑)自分としてはメダルを取るためにやってきた。この人のことを聞いていれば絶対取れるんだって。そういう信頼があった。絶対に根を上げたくない。言われたら必ずやる。そういう気持ちで日々日々苦しみながら必死だったんです。
石井:その時もう結婚なされてましたよね。ご家族の反応はいかがだったのですか?
葭原:バルセロナの頃からその大会が終われば引退して競技から離れるってずっと言い続けていたんです。(苦笑)またか、またかって。(葭原、石井苦笑)
石井:奥さんの方が苦労があったかもしれませんね。(苦笑)
葭原:すごいあったと思う。子育てとかほとんど自分は縁がない競技人生だったから。
石井:部屋には固定バイクもあったかと思いますが、お嬢さんはどう思ってらしたのでしょうか。
葭原:テレビを見ている横でやっているとうるさいって怒られたり。(葭原、石井苦笑)
石井:その後、晴れの舞台になるシドニー・パラリンピックになりますね。

後編へ続く。

アソシエイト講演会では選手の講演会の開催の募集をしております。このインタビューでは語られなかったことや、実際に葭原選手の生の声を聞いて頂き何かを感じて頂ければと思います。ご関心がありましたらキャンディーズインターナショナル株式会社 アソシエイト講演会までお気軽にお問い合わせ下さい。

アソシエイト講演会のご案内
お問い合わせフォーム

最近の投稿

カテゴリー

お問い合わせ・ご相談・お申し込み