自然な出会いで新しい世界が広がる キャンディーズインターナショナル

アフター・オリンピック・パラリンピックを歩む会

アフター・オリンピック・パラリンピックを歩む会 「ゴルフの風を感じろ」 「私見、あるいは視覚障害者のゴルフの環境における考察」


今回、アフター・オリンピック・パラリンピックを歩む会のオフィシャルなコメントではなく、代表石井の私見に基づいて視覚障害者とゴルフについて書いていきたい。

近年、松山英樹がメジャー大会で優勝争いを演じ、ゴルフへの注目度が上がっている。2017年の全米オープンでは最終日猛チャージをかけて2位に。続く全米プロでは前半を終わって首位に立ち、日本人で近年にない白熱した優勝争いを演じた。
その松山英樹の活躍に刺激され--それはかなりミーハーな動機ではあるが?NPO法人 日本視覚障害ゴルファーズ協会(以下VIG)主催による視覚障害者向けのゴルフの練習会におじゃました。
会場は杉並にある浜田山ハイランドセンターの練習場。都内で駅からも近く立地はかなり良い。大きさは70ヤードほど。しかしながら上野にある池之端KGゴルフガーデンでは20ヤードほどの距離を考えるとかなり大きい。20ヤードだとボールを打ってルックアップするか否かにネットに当たってしまう。

視覚障害者とゴルフというと、私が見えている時にヨーロッパだったかアメリカだったかで全盲の女性がホールインワンを記録したという記事を目にした。見えている時は視覚障害者でもゴルフをやっているんだなというわずかばかりの情報があった。

少々遠回りになるが、私とゴルフの関係を先に述べてから進めたい。

私は14歳の頃ゴルフと出会った。中学2年生の頃より重度のアトピー性皮膚炎に悩まされて入院や転地療養などを繰り返してきた。当時はアトピー性皮膚炎はそれほど効果的な治療法はなく、ステロイドの大量投与をしていた。それでも一向に良くならず中学3年の出席日数は確か7日。痒みと痛みで寝れないというのが日々纏わり付いていた。近所の友人や担任の先生が家のチャイムを押してはくれるものの、その好意にを受けることが出来なかった。
それまでは身体を動かすのは好きだった。中学2年まではサッカー部が中学になかったのでバスケ部に所属。しかし1年生が大量に入部したので試合機会はさほど、いやほとんどなく日々学校の周りを走っていた。
その後迎える高校受験では中学2年までの成績がさほど悪くなかったので中のクラスの高校には入れるという先生の意見があった。しかしながら今の症状では高校に進学しても学校に通えないという私自身の判断で高校進学を諦めざるをえなかった。
日々病院の往復くらいしか外出はしなくなったので悶々とした日々が続いていた。この先どうやって生きていこうというような思考を停止して生理機関が動いているだけといういわば引きこもり状態になった。
高校に行かれないというのは非常にコンプレックスになり人生に対しての諦念を覚える。今でこそ長期海外留学を経験できたこともあるが、それまでは友人知人が高校の時の話など始めるとトイレなどに行き離席することもしばしばあった。
「消えてしまいたい」と思い、包丁を左胸にあてがってどうやったら心臓を貫くことが出来るのかということもおこなうような精神状態だった。中学2年までは大学に通って英文学や映像の勉強をしていたいと思っていたのもはかなく消えてしまった。

その頃はバブル景気の終わりの頃でまだ金回りが良かった。AONと称される青木功・尾崎将司・中嶋常幸が活躍し、ゴルフがブームになった。父親の周囲がゴルフをやっているので父親がゴルフを始めることになった。それまでのゴルフの知識は小学5年生の頃、青木功がハワイアンオープンの最終日の18番での劇的なチップインイーグルを記録し、日本人男子で初めてアメリカのツアーに勝ったという程度のものだった。その頃見た青木功さんのグリーンの芝目を見る鷹のような鋭い眼光が深く記憶に残っている。
ほぼ引きこもり状態になっていたのを憂いて父親がゴルフの練習に誘ってくれた。最初は特段の興味もなかったのでお付き合い程度にゴルフの練習をしていた。

ゴルフを決定的に好きになったは「ジャックイズバック」として伝説となっている86年のマスターズで優勝をしたジャック・ニクラウスの映像を見てから。ちなみに生ではなくビデオで鑑賞。バック9はもう神がかり的プレー!16番のパー3ではバックスピンがかかり、あわやホールインワンという奇跡的なショットとパターを連続した。もう何かが乗り移っているようなショットでトップでホールアウトした。最終日スタート時点でトップに立っていたのはグレッグ・ノーマン。18番を迎えてニクラウスと同じスコア。ティーショットもフェアウエイでパーは固いシチュエーション。後にノーマンは「バーディーを狙った」と語ったショットは大きく右に外れ観客席の中に。ノーマンがセカンドショットを打った瞬間にうつむいた時点で勝負は決まった。

その後、NHKで再放送をしたジャック・ニクラウスと青木功が4日間同じ組で回って熾烈な優勝争いをした「バルタスロールの死闘」を見てシビレた。
ニクラウスは揺るがなかったし、それに必死に食らいつきホールへねじ込む青木功のプレーは非常に強く印象に残っている。

主にメジャー大会をテレビで録画して何度も見てゴルフの持つ精神性に深く引き込まれた。トム・ワトソン、セベ・バレステロス、そして負けっぷりが悲痛なまでに劇的なグレッグ・ノーマンが当時の私のヒーロー達だった。
テレビのアングルのみからしか分からないが、マスターズのバック9は細かく覚えている。そしてタイガー・ウッズの出現。視力があった頃は初期の頃しか見ていないが、彼の完璧なまでのスイングを見て「時代が変わった」という印象を強く受けた。

ゴルフコースを初めて回ったのは15歳の頃。太平洋クラブ相模コース。確か50以上という初心者にありがちなスコア。記憶に残っているのは17番の左ドッグレッグのドライバーがかなりの飛距離をマークした。恐らく280ヤードほど。そのショットでゴルフを続けられるかもしれないという思いは確信に変わっていった。
それからはゴルフ漬けの毎日になった。父親の繋がりで東京にある練習場のティーチングプロを紹介してもらい週に3、4回実家の神奈川の二宮から2時間以上かけて通った。当時の私にはゴルフが何かを変化させてくれるのではないかという感覚があった。 学業コンプレックスは病的に強く、日々独自に勉強を続けた。英語、文学、物理。それらを移動時間にカセットのウォークマンでヘヴィーメタルをガンガンかけながら学んでいった。
家に帰ると重い鉄パイプで素振りをし、筋トレではつかないしなやかな筋肉を徐々につけていった。そして近所の人に顔を見られたくないので、夜に丘の上にある家からひたすら走っていた。
そして夜中になると部屋でパターの練習をし、集中力がなくなるとマンガ『風の谷のナウシカ』の模写を続けるという日々が続いた。

月に2回ほどコースを回ることが出来た。日本でも屈指の名ゴルフコースの川奈ホテル富士コースも4回ほど回ることが出来た。贅の限りを尽くしたような川奈ホテルは大江健三郎の「燃え上がる緑の木」において、そのレストランに入ろうとしたところ、知的に障害がある息子がいるため入店を拒否されたという記述があり、川奈ホテルに対して嫌悪感にも似た気持ちになった。
何回回ったか忘れるくらいに通うことが出来たのが毎年秋におこなわれる三井住友VISA太平洋マスターズの会場となる太平洋クラブ御殿場コース。距離が長い上に周囲は林というか森。そして名物のガラスのようなグリーンというタフなコース。いまでもコースの状景は頭に浮かんでくる。

アトピー性皮膚炎はほんの少しずつではあるが良くなりつつあったがそれでもその症状に悩ませられる日々が続いた。ただ極論にはなるが、スタンスを構えてからボールを打つまで10秒ほど集中していれば病気とは関係がなくなる。
日々練習を積み重ねていくうちに18歳の頃になるとスコアが70台を記録するようになった。練習場主催の月1回おこなわれているコンペにも参加。年間のチャンピオンを決めるコンペでは優勝!大きな翡翠製のトロフィーも頂いた。ちなみにこのトロフィーは私が日本ブラインドサッカーの副理事長をしていて、当時関東リーグが発足したものの資金がないのでそのトロフィーのプレートを外してサッカーの優勝杯と差し替えて寄付した。その大会では優勝して手に戻るかとも思っていたけれど準優勝ばかりだった。

ゴルフという競技は精神力のスポーツとよく言われる。OBを出しても次は絶対にフェアウエイをキープするという気持ちの切り替えが重要。それは孤独に自分自身との対決になる。その時夢中になっていたのは英語は先生との会話はあるものの、文学、音楽、絵と、1人で出来るものが多い。他人との接触を嫌う当時の私としてはその性格にマッチしていた。どれも1人でいる時におこない、その間だけ集中出来た。

1人で自分自身に対峙するのがベースにあるとしても、ゴルフは4人で回るのが基本。ほぼ半日を一緒に行動することになる。ハーフを回ればランチを一緒にとり、またコースを回り、ホールアウトしてビールを飲む。当時は飲めなかったけれど。
1人でなにもかもやりたいという極めて「社会性」のない生活から少しずつ「社会性」が広がってきた。
平日の昼間に4、5時間500球以上、時には1000球以上を打ち込んでフォームを創り上げていく。今では書けるが20分2000円のティーチングプロのレッスン料以外はそのプロのはからいでボール代はタダにしてもらっていた。ボールの代金はかなり高いので申し分ない条件が整っていた。
そのティーチングプロのレッスンも効果的かつ楽しかったので、ゴルフのプロのインストラクターになりたいという願望が芽生えてきた。「社会性」とは無縁だったのがゴルフというツールを通して人と人を繋ぐことになっていった。

アマチュアとしてはそこそこのプレーで廻れるようになり、ツアープロは172センチという小柄な体格ではまず無理なのでインストラクターにという流れだった。
その頃になると転地療養のおかげもあり、アトピー性皮膚炎も徐々に良くなっていった。 私が習っていたティーチングプロはプロの中でも飛ばし屋で鳴らしていたので最初は全く歯が立たなかった。しかしどのコースか忘れてしまったがそのプロが打ったドライバーを10ヤード以上オーバーした。その飛距離は300ヤードほど。当時はメタルのヘッドが出始めていたが主流はパーシモンなので筋肉がさほどついていない中ではトップアマとしては及第点の飛距離。そのようなことも自信につながった。
しかし、185センチくらいのプロを目指す学生がドライバを振るとやはり飛距離のアベレージでは負けてしまう。そうすると自分に何が出来るかを考えなくてはいけなかった。青木功さんはあまりにも個性的で真似は出来なかったが、手本となったのはパターの名手のベン・クレンショー。滑らかにグリーンを這いカップに吸い込まれるそのボールの動きの美しさを求めて1人部屋で毎日パターの練習をしていた。グリーン周りをはじめとしてパターなどの小技は自信があった。芝目というのは芝がどちらに倒れているかというアマチュアでは観察が難しいものも見抜くことが出来てパターは非常に好きだった。というのも、18歳に車の免許を取る前の教習所で計った視力検査では一番下の2.0がはっきりと見えていた。はっきりと見えていたので2.0以上の視力はあったと思われる。

当時の私は練習ではクラブのフェイスの芯にしかボールの跡がつかないというようなレベルまできていた。しかしながらスイングのいわゆる体幹がまだしっかりと出来上がっておらず、本番のコースではブレることも多かった。おそらくまだ体幹を支える筋肉が弱かったのだろうと思う。
自分自身を誇張したり美化する訳ではないが、とあるゴルフのクラブのメーカーに行き、室内で小さいけれどドライバーも打てるスペースがありクラブを選んでいた。その時いたプロが「プロになる気はないか」と言われた。しかしながら自分はまだアマチュアの大会にも出ていないし、スコアも安定していないのでその答えには応じられなかった。

「ゴルフは美である」というのはゴルフをプレーしている愛好者はそう思うのではないだろうか。
その「美」を求めてプロのツアーを観戦することも多くなった。
セベ・バレステロスが出場した三井住友VISA太平洋マスターズでは最終日に朝から家族で出かけ、セベ・バレステロスと18番ホールを一緒に観戦しながら回ることが出来た。そしてトム・ワトソンに2打差(確か)をつけて優勝した。懐の深いスイングは「美」そのもの。トム・ワトソンはトップからフォロースルーまでの速度が異常に速いのも特徴。 ホールアウトしたトム・ワトソンが私の家族の前を通った時に父親はちゃっかり握手をした。

そしてよみうりカントリークラブでは大会2日目に観戦。憧れのグレッグ・ノーマンを目の前にして観戦出来た。そのボールの飛距離と高さは尋常ではなかった。ノーマンを追いかけて谷越えの18番を見届けてクラブハウスの前をウロウロしているとホールアウトしたあのジャンボ尾崎と2、3mの距離で視線が合った。あの威圧感のある眼と合ったのだからビビってしまう。

考え悩みながらひたすら練習をする日々が続いていたが本が徐々に読みづらくなってきた。近視が出たのだろうと思ったがそう悪くはないので眼科に行くこともなかった。その後、数ヶ月もすると光がまぶしくなり、視力にも変化が訪れ低くなっていった。病院に行くと白内障という診断だった。白内障とは眼の中のレンズが曇ってくる症状。なぜこうなるのか医者に訊いてみるとはっきりとした原因は分からない。アトピーではないだろうかという見解だった。
左目が数ヶ月の内に全く見えなくなった。右目も新聞を読む時はルーペを使わないと見えないという状態までなってしまった。レンズが曇ると光は中で乱反射しとても眩しく感じてしまう。車窓からビルの群れを見たつもりがその時晴天だったので全てが青に光ったのが美しくもあり恐ろしくもあった。
もう日常生活に支障が出てきたので白内障の手術をすることになった。19歳の時だ。濁ったレンズを人工のレンズに変えるという比較的一般的な手術だ。果たして以前のように2.0の視力まで戻るのか心配だった。
オペをしてかなり見えるようになった。しかし視力は0.7ほど。同時に飛蚊症にもなった。通常ではこの視力が出れば成功ということになるが、ゴルフでプロを目指そうとなるとこれは絶望的な数字だ。プロでも老化現象で視力は落ちることもあるがそれは基礎がしっかり固まっていればスコアが出る。しかし極めて細かいアンジレーションや芝目を読むには辛い状態となってしまった。

ティーチングプロもお見舞いに来てくれたが、そう会話は出来なかった。2週間の入院を経て退院して馴染みのある風景を見ても、それは馴染みのある風景ではなくなっていた。それはもうプロにはなれないという世界に入ってしまったと感じた。失明ではないにしろ、そこには数年間全力を尽くしてきたのにやり切れない?あるいは絶望感にも似た?思いがあった。培ったのは努力というかは判断出来ないが、それを努力といえばその努力は水泡に帰してしまった。

白内障の手術は日帰りでも出来るくらい一般的なもので多くの患者が手術を受けている。特に高齢者になると白内障を患うケースが多い。作曲者のバッハも晩年白内障になったのではないかという研究もある。
白内障の手術を受けた後は眼圧が不安定になった。2週間に1度検査する日が続いた。気がついた時には視野欠損が始まってきた。
それでもゴルフは余暇、あるいは「おつきあい」という程度にプレーしていた。練習量はやはり少なくなるし、モチベーションは白内障の術前に比べると低い。全くないと言っても差し支えない。スコアも80くらいまでに落ちるようになった。
専門学校には通ったものの、右目は網膜剥離、左目は緑内障という爆弾を背負うことになり失明という切羽詰まった恐怖の仲で過ごすようになった。
緑内障が進行すると頭痛、吐き気、目の霞が起き、そして二度と戻らない視野欠損が進むその代償としてプロを目指すどころかエンジョイとしてのゴルフさえ失うことになった。 この辺りの失明に至るストーリーは長くなるので私が主人公の平山譲る著『サッカーボールの音が聞こえる』(新潮社)を参照してもらえたらと思う。 

「失明後の社会復帰におけるスポーツの役割」

失明をした後、救ってくれたのはブラインドサッカーであり先輩や昔からのサッカーの仲間だった。これも「社会復帰」への大きな一歩だった。そういう点ではゴルフも同じであり、中途失明者に限らず先天性の視覚障害者にとってスポーツをすることは社会復帰の道を歩む上で極めて重要なことであると断言してもいいだろう。

「視覚障害者とゴルフ」

ゴルフとは日常のスポーツであると思う。確かにクラブを買ったりコースを回るには少なからずのお金がかかる。しかし練習場で1時間ボールを打つだけでも気分転換になる。日曜日にチャンネルを合わせればゴルフのトーナメントを放送している。メジャー大会となればかじりついて優勝争いの展開に固唾を呑みながら画面を観る。
日本では緑内障、糖尿病網膜症、網膜色素変性症を患う人が多い。41歳以上からの中途視覚障害者は、視覚障害者全体のうち半数を占めるというデータがある。糖尿病などで高齢者が失明するケースも非常に多い。つまり平たくいえば中途視覚障害者は「少子高齢化」なのである。 ゴルフを楽しむのは若年層から高年齢者までと幅広い。生涯スポーツとして愛されプレーされる現在のゴルフ人口はバブル経済期に比べ半分以下に減少したとはいえ760万人ほどと多い。ミドルエイジから高齢者の失明が多いとすると、その中でゴルフをプレーしていた人も多いと想像出来る。野球やテニスは比較的高年齢でもプレー出来るかもしれないが、サッカーやラグビーといった球技は40代くらいになると引退してしまう人も多い。それに比べてゴルフは年齢問わずプレー出来る。私の叔父など、70歳にしてエイジシュート(年齢とスコアが同じ)というスコアをマークした。

中途失明者で失明前と同じ生活をしたいという気持ちはあるが、失意の底でなかなか前向きな考えになるには時間がかかる。
現在ではITが進み視覚障害者であっても情報を得ることがかなり容易になっている。しかし視覚障害者がパソコンを操作出来るという根本的な情報も、突然中途失明した人にはリーチしづらい。病院でアフターフォローをしてくれるところなど稀だからだ。
その情報を得て高齢者がパソコンをマスターするとなると、やはり時間がかかってしまう。すると情報にリーチするまでに時間がかかってしまう。
視覚障害者になっても日常だったゴルフが出来ると思えるようになるまではかなりの時間がかかるのは現状であろう。
それは何もゴルフだけの問題ではなく、サッカーであったり野球であったりバレーであったりするのも同じである。まずはどうやって生きていこう、つまり仕事はどうしようかというのが目前に迫る問題となり、余暇についてはどうしても後回しになってしまう。 しかし、何かしらの余暇に参画すると、同じ境遇の人たちから有益な情報を得たり、悩みを分かち合えることも多く、社会復帰への第一歩へのフックになりえるので大変重要なのは言うまでもないところであろう。 失明直後、すぐに楽しめるもの。インターネットで使える音声ソフトを勉強しながらではあったが、音声の読書なり音声ガイドつき映画は私の場合前者が半年、後者が1年くらい利用するまでにかかったのではないだろうか。ちなみにブラインドサッカーへの講習会への参加するまでの時間は1年半ほど。しかも当時は関西でしか練習会はなかったので、新幹線に乗ってあししげく大阪や神戸まで通った。

そのように中途視覚障害者のみならず先天性の視覚障害者に情報を提供するのは視覚障害者当事者が検索しなければその情報にアプローチ出来ないことが多い。適切なリハビリテーション施設に通所するというのも情報あってのもの。その情報にたどり着くまでに時間がかかる。
テレビで放送する障害者スポーツは限定されてしまい、映ってもそのスポーツのトップクラスの映像だったりするので、最初どうやって参加したらいいのか分からないと感じる視覚障害者は多いのではないだろうか。
しかも問題なのはテレビで取り上げられるのはパラリンピック競技か世界選手権などのトップクラスのプレーが非常に多い。日本パラリンピック委員会や日本障害者スポーツ協会に登録していない?あるいはしたくても出来ない?競技団体も多いのは確かな現状だ。現在は上記のような中央の大きな組織に加盟しなくてもNPO法人を取得して地域で活動している団体も多い。しかし自分自身がやりたいスポーツを自由に出来る社会とはとても言えない。私も水泳を始めようと思ったがボランティアを調整するのはかなり大変である。2017年現在では東京都総合障害者スポーツセンターはパラリンピックのための工事がおこなわれており使用出来ない。一人でもスイミングは出来るが、普段通っている箇所など慣れるまでにはボランティアなどのガイドが必要になる。ボランティアがいないとスイミングを出来ない環境なのでそのボランティアを探すのは非常に困難な状況だ。これがパラリンピックをおこなおうという国の現状なのだ。

比較的参画しやすいのは読書、音声ガイドつき映画、音楽鑑賞、楽器の演奏だったりする。これらは視力とは関係がなく楽しめる。
しかしスポーツとなると体力増加のためにスポーツクラブに通いたくなるが、三菱養和のスポーツジムのように視覚障害者へ対しての人権を無視したような断られ方もされてしまうケースもある。

三菱養和に関してはこちらの記事を参照。
「深刻な東京の視覚障害者のスポーツ環境」

「視覚障害者の生涯スポーツとしてのゴルフ」

前述の通り、ゴルフは高齢者でも楽しめる数少ないスポーツである。失明をする平均年齢が上がりスポーツをする機会が少なくなってしまう。
運動不足になりがちな中途視覚障害者が1日約10キロも歩け、その点ではゴルフはうってつけのスポーツである。
2017年9月に全盲になって初めてゴルフの練習会に参加した時の感想を振り返りたい。 ゴルフクラブを握るのは失明する半年前くらいなので18年振り。もうすっかり左手のタコもなくなっているし、フォームも崩れているので当たるか心配だった。私のスイングのチェック箇所は数十箇所になる。一つ一つをクリアしてその課題を乗り越えてスイングを完成させていく。とはいえ完成なんてほど遠かったが。

当日は東京・浜田山駅に集合して会場へ。小雨が降っていた。ニック・ファルドがリンクスのコースを回っている時、小雨が降ってきた直後に素早くレインコートを着て雨への対策が素早かったのを思い出した。
当日は5人参加。全盲の方もいらしゃれば弱視の方もいる。参加費は1100円。人数によっては変動する可能性もある。
クラブは持っていないので練習場のものをレンタルしようと思っていたが参加者の方が好意でクラブを貸してくれた。
最初7Iで素振りをしてボールを打とうとするとこれが見事に当たらない。あれだけ練習をしていたのにもかかわらず、かすりもしない。
しばらくすると練習場のティーチングプロが丁寧に説明。どうやら練習会ではプロのレッスンが受けられるようである。10分弱ではあるが的確に教えてもらえる。ゴルフのフォームは1回教えてもらうと即効性があるものもあるが、1年以上かけて改造することも多い。その点では今回の練習は前者だった。今回は膝の使い方について指示を頂いた。 クラブを9Iに代えてアプローチをするような小さくゆっくりとしたスイングに変えると徐々にクラブに当たるようになってきた。18年ぶりにボールが当たる感触は実に楽しいものだった。昔の真剣にゴルフと対峙していた頃の思い出が蘇る。
ただドライバーを正確にフェアウェイに置くことが出来るようになるまではかなりの練習量が必要というのは怠けた身体が教えてくれる。
ただこれは目標設定は人それぞれなので練習場に通うだけでも楽しいということもある。スコアを気にせず回りたいなど様々であろう。その楽しむ多様性がゴルフにはある。

このように、中途視覚障害者がゴルフを楽しむというのは生きがいにも繋がる。コースを回るのも初心者でいくら打ってもホールインしない時はペナルティーを払って「回ったことにする」というルールもある。つまりいくら空振りをしてもペナルティーを払って次のホールに向かうことが出来る。初心者でも安心してコースを回れるようにVIGでは実施している。
他にはショートコース、パー3のコースも回ることもあるという。
気になるコースを回る料金だが、VIGの努力もあるのだろう、かなり低く設定されているので参加がしやすい。

ここで視覚障害者がどうやってゴルフをするか解説したい。弱視の方はほとんどルールが変わらない。 全盲の方も通常のゴルフとはほとんど変わらない。そこで必要とされるのはパートナーと呼ばれる存在だ。パートナーは健常者がおこない、視覚障害者とプレーする。 ピンへの距離、方向、風向き、ライ(ボールが置いてある芝などの状態)の状況を解説する。そして健常者と変わらないスイングをしてボールを打つ。
今回参加していたVIGの会長の全盲の方はゴルフ歴20年ほど。練習場では正確にヒットしていた。
思い出したのは昔練習している時にフォームのイメージを作るために眼をつむってスイングをしていた。そう考えると練習をすれば当たるはず。とはいえ、20年戦士にはかなわない。

現在松山英樹がメジャー大会で優勝争いをすることもあり、ゴルフの中継も視覚障害者にとっては楽しめる。常にボールが動いている競技ではなく、ボールが止まった状態から打つのでそのシチュエーションが想像しやすい。ティーショットもあのボールをヒットする音など痛快に感じる。パターも解説者が何メートルなどという解説も入る。そして何と言ってもあのカップインの音。

練習を重ねれば比較的早くコースに回れるのではないだろうか。ゴルフとは一見奇妙なスポーツだと思う。森林を伐採してゴルフコースを創る。その創られた自然の中で、風や芝との戦いがある。そして自分自身とも。
視覚障害者にとってもゴルフをプレーするということは「創られた自然」の中でも風や飛び交う鳥の声、芝の感触、あるいは林の中に打ち込んでしまいその中で木の感触やこずえを感じることが出来る。
そして何よりパートナーや一緒にプレーする人との繋がりが非常に大切なエッセンスになってくる。もし引きこもりがちな人がゴルフをプレーした時には一気に「社会性」が広がる。

NPO視覚障害者ゴルファーズ教会の会長にお話をうかがうと何よりも楽しいのは「カップインした時のカップにボールが落ちる時の音」という。肌で感じる感触の他にゴルフをプレーする上での「音」はもちろんのこと、風や芝などの「自然」といったエレメンツは視覚以外の感覚に敏感な視覚障害者にとっては、その「自然」と一体になったような感覚が芽生え充分楽しめるだろう。
指を濡らして立てれば風の感覚が分かる。ティーショットは平らだが、その他はフェアウェー以外はほとんどのところが傾斜し、足裏からそのアンジレーションを感じることが出来る。それは普段あまり使うことが無い感覚をフルに使うことによってゴルフをプレーするということにつながるのではないだろうか。

課題点を聞くと、いつもコースを回る時、ボランティアがパートナーとして参加してもらえるが、いつも同じパートナーでないと連帯感が生まれず、慣れてきたころには終わってしまうので同じ人が定期的に来てくれるのが望ましいという。ツアープロが同じキャディーでコースを攻略するのと同じであろう。

現在日本における競技人口はおおよそ90人ほどという。年1回の大会では22人が参加。徐々に広がりをみせている。
パラリンピックの競技ではないが視覚障害者の「生涯スポーツ」としてのゴルフは重要な位置を占めるのではないだろうか。

アフター・オリンピック・パラリンピックを歩む会 代表 石井宏幸

最近の投稿

カテゴリー

お問い合わせ・ご相談・お申し込み